「守」「破」「離」という三つの訓え
すべての技芸、すべての学問、すべての道。およそ「まなぶ」(学ぶ)という言葉で表されることを行うすべての者が守らなければならない原則として、「守」「破」「離」という三つの訓えが昔から伝えられています。武道でも、これを『拳の三訓』と呼んで、重要視しています。「まなぶ」という言葉は、もともと「まねぶ」から変わったもので、「まねをする」ことです。何ごとでも、はじめは「まね」をすることから始まって、繰り返しているうちに、すっかり自分のものになってしまうものです。「繰り返す」ことは「ならう」(習う)という言葉で表されます。「まなびならう」で「学習」になります。
人は生まれたときから、本能的に動くもののほかはすべて学習によって獲得し、少しずつ自分の能力を増大してゆきます。学習を止めたとき、成長が止まります。「習う」ことをやめると老化が始まり、せっかく「学んだ」ことも、はじめから忘れてゆくものです。
「守」とは、「師の格に至ること」
「破」とは、「師の格を変形すること」
「離」とは、「師の格から出て、己れの格を生み出すこと」
ここでいう「格」とは、「ゆきつくべき、正しいところ」を意味します。
「守」「破」「離」の三段階
道を学ぶ者は、まず正しく師の教えに従い、師の形を学び、その形の「格」に到達することを目標とし、自分勝手な解釈をして、我流に走ることのないように注意しなければなりません。これが「守」です。この第一段階が十二分にできるようになったところで、次の段階に進むことが許されます。すなわち「破」の段階で、ここではじめて自分の特質を加味して法にかなう範囲で変形することが許されます。最後の「離」は、師を超え、自由な創造が許される段階です。この域に達してはじめて「出藍のほまれ」が与えられます。
「出藍のほまれ」=「青は藍より出でて藍より青し」のことわざから、弟子が師よりもまさることをいう。
法にかなっているか、正しい格に入っているか
「守」「破」「離」の三段階で、共通の原則となるのは次の二つです。「法にかなっていること」つまり、その技の目的に適しており、無理と無駄がないこと。「正しい格に入っていること」つまり、でたらめでなく、正しい姿からはみ出さないこと。この二つは必須条件であって「離」だからといって、とてつもないことを始めたのでは、その道から文字通り本当に離れてしまうことになります。
「楷書」「行書」「草書」の例
正しい楷書は、一点、一画のおき方まで、先生に教えられた通りに正しく整えて、はじめて書くことができます。行書は、楷書が正しく書けるようになってから、はじめて自分の特質を加味しながら書いてもよいと許されます。すなわち「楷書が正しく書ける」ことを条件として、それを法にかなう範囲でくずしてもよいということになるのです。さらに上達して、楷書、行書ともに自由にこなせるようになったら、はじめて草書を書いてもよいというお許しが出ます。草書は元の字とは見違えるほど離れているが決してでたらめではなく、楷書から発した法にかなう、正しい格に入った字でなければならないのです。
現実上の問題点
技にもそれぞれの個性があります。その人その人のトレーニングの段階により、また工夫の仕方により、独特のクセというものがあります。目的は一つですが、そこに至る道は無数にあります。一つのものに執着して、「こうでなければならぬ」とこり固まると、成長は止まってしまう。
目的と意味を意識して行うこと
あらゆる動作には「何のためにやるのか」という目的があり、「こうすればどのような効果があるのか」という意味があります。動作の目的を見失うと、見当違いのことに一生懸命になって無駄な労力を費やすことになります。また、動作の一つ一つの持つ意味をよく吟味しないで、トレーニングを重ねても効果はあがりません。意味を意識しながら技を行えば、自分の苦手なところを修正してゆくことができます。
無理と無駄をなくすこと
一つの動作を十等分して、その一コマ一コマに「無理なところはないか?」「無駄なところはないか?」と吟味して、もし無理と無駄があれば全部捨ててしまうこと。一連の技のどこを取り出しても十分に洗練され充実し、「最小限の力で最大限の効果をあげられるもの」にまで持ってゆくことです。これは別名「技の効率」という。効率とは、「消費した力の何%を有効な仕事に変化させることができたか」という割合のことです。効率を良くするとは「最小の力で、最大の効果をあげること」にほかなりません。