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武の意義と武道の本質

武道は医療人の基本理念「人々の生命や生活を救い、人々の役に立つ」と通じています。

武は平和と文化に貢献する和協の道

「武道」の「武」という文字は「ニ」と「戈」と「止」の三つの文字が組み合わされてできています。すなわち「武」は「二つの戈(ほこ)を止める」という意味を持つ会意文字です。『説文解字』という文字の起源と意義を解説した中国後漢時代の書物には、「武は撫(ぶ)なり、止戈(しか)なり、禍乱を鎮撫するなり。禍乱を平定して、人道の本に復せしめ、敵を愛撫統一することが武の本義なり」と説かれています。この一節の意味は『武は撫(な)でることであり、戈を止めることである。争乱を鎮め治めることである。争乱を平定して、人としてあるべき本来の道にもどし、敵をなだめ統一することが本当の意義である。」ということです。つまり武の意義は、決して闘争を求めたり、敵に勝ち、敵を殺生することにあるのではなく、人と人との争いを止め、平和と文化に貢献する和協の道を表わした道徳的内容を持つものなのです。

武は人づくりの大道

攻防の「技」や、その応用である「術」や、その用い方である「略」のことを「武の体」という。また、それらを修行・鍛錬することによって、個人的には身を修め、地域社会では悪を除き、国家社会では乱を治め、人類社会では世を益するといった効用がありますが、これらの効用を「武の用」という。武道とは、これらの「武の体」と「武の用」とを合致させる道のことです。したがって、武道の本質とは、格闘の技術を修行・鍛錬することを通じて、精神・肉体ともに健全な自己を確立するとともに、社会的にも、積極的に不正や悪と戦ってゆける勇気と行動力を持った人間をつくってゆく「人づくり」の大道であるのです。

真の武道とニセの武道

武道には、「真の武道」と「ニセの武道」とがあります。人と争うため、人に勝つため、人を殺生するため、あるいは自己の名誉や利益を追求するために行われているのは「ニセの武道」です。自己を修め、自己を確立するため、そして社会の悪を除き、乱を治め、福利に貢献するために行うのが「真の武道」です。ところが、世間で武道と呼ばれているものの中には、武の意義も武道の本質も理解しない、単なる勝負術に過ぎないものや、無理な苦行を強要するしごきのようなもの、あるいは人に見せることを目的とした見世物のようなものが少なくありません。この種のものに携わる人たちは、口を開けば勝敗や強弱を論じ、戦うことと勝つことに意義があり、勝つために修行しているのだと強調します。そして強い者、試合に勝った者だけが立派な人間であるかのようにいっています。しかし、武道というものが、試合に勝つことを目的に修練され、強者をつくる目的でのみ修行されるのであれば、多くの実例が示すように、暴慢で、殺伐とした、我の強い、鼻もちならない人間を育てることは明白で、これほど有害無益なものはないでしょう。こうしたものは、武道の名を借りた似非武道であるといえます。

自己確立と「自他共楽」の理想境実現の道

武道というのは、いざというときに役立つだけの強さと勇気を身につける技術であると同時に、そうした強さと勇気と行動力を正しく使用でき、社会の幸福と発展のために役に立つ人間を養う人づくりの道です。いいかえれば、武道の本質というのは、人との争いに勝ったり、自己の欲望を満たすために修行する闘争術などではなく、己れに克ち、自らの寄るべとなる自己を確立し、そして人を生かして我も生き、人を立てて我も立てられるという、「自他共楽」の理想境を実現する道なのです。

「勝つ」とはどういうことか

そもそも我々人間社会において、「勝つ」とはどういうことを意味するのでしょうか。過去の日本武道の達人といわれる人たちの場合、武芸者同士が真剣勝負をして、相手を殺生した場合のみ「勝った」と考えられていました。こうした歴史が示すように、無手の武術は刀・槍の武術へと進み、やがてそれが小銃や大砲に発展し、さらには人類の破滅につながるミサイルや核兵器などの技術を開発するに至っています。このような現代を生きる我々が、何のために強さを求め、貴重な時間を何年も費やして、原始的な格闘技を修得しなければならないのでしょうか。人に勝つことのみを目的とするこの種のものが、果たして現代社会において意義があり、重要なことであるのかどうか、よく考えてみる必要がある。

人を生かして己れも生きる

もし我々が単に勝つことを目的として修練された強者のみを育てるなら、これほど有害で無益なものはありません。立派な体格や容貌をしているからといって人格を備えた立派な人とはいえないように、武道の場合も、単に強いとか技が優れているからというだけで、真の武道を会得したとはいえません。真の武道を求める者は、武の本義に徹し、武道の本質を知り、敵に勝つことよりもまず己れに克つことを修め、己れを知って、人を知って、人間は何のためにこの世に生をうけているかを悟らねばなりません。人間は、心のあり方如何(いかん)で、善にも悪にも変わることができることを思えば、真の武道のあり方も、人を倒し、人を殺生する技術を修める道としてではなく、「己れを修め、己れに克ち、人を生かして、己れも生きる」という済世利民の道でなければならないことがよく理解できるはずです。

※済世利民(世を救い人のためになること)

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