嗅覚の特異性を表す表現に「プルースト効果」があります。フランスの小説家マルセル・プルーストが書いた長編小説『失われた時を求めて』の場面に基づいて、「ある特定の匂いにより、それに関係する記憶や感情が蘇る」現象のことをプルースト効果と言うようになりました。よく記憶のフラッシュ・バックということが言われますが、「香り」が引き金になり、フラッシュバックを起こすのがプルースト効果です。
他の感覚と嗅覚は大きく異なり、「におい」は大脳新皮質を経たないで、記憶を支配する海馬領域や感情を支配する扁桃体に直接的に伝わるため、いわゆるフラッシュバックのような症状を示すと考えられています。五感のうち嗅覚だけが直接的に大脳辺縁系に働くことができます。香りの分子は直接的に感情や情動行動につながる影響を私たちに与えます。はっきりした科学的データはまだ十分ではないのですが、このような嗅覚の特性により、私たちは良い香りを嗅いだときに、気分が晴れやかになり、不安感やうつ状態が改善されると考えられています。
良い香りは私たちの心を慰め、癒してくれます。香りを持つ物質を利用してきた歴史をみると、香りを持つ物質は単にその良い香りで私たちの心を慰めるだけでなく、もっと別の実用的な側面も持ってきました。中世ヨーロッパでは、バラのアロマ精油を傷に塗るとその治りが早いことが知られていました。ハーブを用いた民間療法はヨーロッパでは古くからあり、香りを持つ植物は生活改善や民間医療に広く使われてきました。それらの効果の多くは、単なる香りの吸引ではなく、それらの物質を塗布したり飲んだりすることによって発揮されます。
香りは学習や記憶を担う部位でもある大脳嗅皮質を活性化しますので、認知症の改善に効果があるのではないかと考えられ、多くの研究がなされています。香りを嗅ぐという穏やかな方法で症状の改善や進行を遅延することができれば大きな助けになります。
老化にともない匂いの感覚も衰えます。80歳になると、8割の人が嗅覚に大きな支障を感じるようになります。嗅覚が鈍くなるだけでなく、匂いの識別も難しくなります。女性は男性に比較して、高齢まで嗅覚を維持できるようです。アルツハイマー病やパーキンソン病のような神経変性疾患を持つ患者では嗅覚能力が顕著に低下します。アルツハイマー病等の問題の1つはその早期診断が難しいことですが、そのごく初期から嗅覚異常が現れるので、嗅覚検査をすることで、その早期診断をすることが現在では行われています。嗅覚検査は簡単に行えるという大きな利点を持っています。香りが私たちの精神に及ぼす影響に関する科学的な研究が今後さらに進めば、香りの活用の幅は今以上に広がることが期待できます。現代の都市生活者の精神状態を穏やかにコントロールできることはQOL(生活の質)の向上を目指す上で、非常に魅力的です。『香りの持つ不思議な力』は人間のQOL向上につながると思います。